綺麗な人だ。
魂までが清らかな、愛と自由の間から産まれたひと。
あの綺麗な人のそばにいたい。
あの人のそばにいるために私も、まっさらでいたいと思った。
寝ぼけた体をストレッチで起こして浮腫みを取る。
ベースメイクはいつもより少し軽めにして睫毛を根元から上げる。アイラインは瞼に沿って短めに、ピーチピンクのティントを指でぼかして馴染ませ頬骨と鼻筋にハイライトを。
鏡の前でにっこりと笑ってみる。
誰にでも愛されることが出来そうな、清楚でかわゆい女の出来上がりだ。
時間通りに訪れた彼がいつもより丁寧に拵えた私をぼんやりと見詰める。
「似合わない?」
下品にも幼くも見えないように細心の注意を払って選んだ花柄のワンピースを翻す。
「似合ってる、」
耳の縁を赤くした蒼弥くんが私をそっと抱き締める。
「やばい。」
耳元に聞こえる甘い声。
「見せたいけど見せたくない」
甘い甘い愛の言葉に囁くような笑みが零れる。
「いやよ、そのために頑張ったんだから。」
彼の腕の中から抜け出して笑えば恨みがましいような視線を向けられる。
「ふふ、」
蒼弥くん。私の最愛、大切なひと。貴方のそばにいたいから、貴方の大事な人たちにも愛されるように着飾ったのよ。
別に蒼弥くんの家族に会うのは初めてではない。
家族を愛し愛されている彼と付き合う上で彼の家族と会う機会はそれなりにあった。
そのおかげで彼のご家族やご友人には良くしていただいている。
でも今まで蒼弥くんが私の育ちに配慮してくれていたのか、一家揃っての家族の団欒の場に訪れたことはなかった。
緊張から必要以上に前髪を触る指を運転席に座る蒼弥くんが握る。
「なんもないって」
大きな手が私の手を掴んで薬指にはめた指輪をなぞる。
夕日が横顔を照らして彼の瞳が煌めく。
低くて柔らかい言葉が私の心に染みる。
知らないはずの傷跡を知っているみたいに。
玄関を開ければ団欒の匂い。
蒼弥くんのお姉さんと弟さんがリビングから現れて歓迎される。
慣れたようにその歓迎を受ける蒼弥くんの後ろを慌てて追いかけた。
「もう少しでお父さん帰ってくるから」
ゆっくりしてて、と蒼弥くんに似た優しい顔のお母さんが笑う。
蒼弥くんとお姉さんに手を引かれてゲーム機の前に座るけれどどうにも落ち着かない。
それを見たお母さんが少し笑って台所に招かれる。
「貴女が家族になってくれるの、とても嬉しいのよ」
心底嬉しそうに彼を産んだ人が笑う。蒼弥くんに似て彼のお母さんは愛を表現するのに躊躇いがない。
いや、お母さんが彼に似ているんじゃない。彼がお母さんに似ているんだ。
子は、親に似るものだから。
家族の団欒の中にいる私をまるで幽体離脱でもしているかのように眺めていた。
例えば、彩りと栄養が考えられ手の込んだ料理。
例えば、互いを慮りつつも躊躇いのない軽口。
例えば、必ず伝えられる感謝の言葉。
例えば、お母さんのスマホの画面に映る彼と彼の兄弟の幼い頃。
貼り付けた笑みは崩れていないだろうか。
彼と会って、彼を知って行くうちに私の生きてきた場所が普通じゃない事を知った。
だから隠した。
綺麗な貴方のそばにいるために綺麗でいたかったから。
私のために一滴も呑まずにいた彼が私を家まで送ってくれる。
「なに、なんか不安?」
自宅に帰ってきてもぼんやりとしたまま玄関に立つ私に、蒼弥くんが問いかける。ぶっきらぼうな口調と裏腹に私を気遣う視線。
綺麗な人だ。
魂までが清らかな、愛と自由の間から産まれたひと。
愛し愛され望まれたひと。
この綺麗な人のそばにいたい。
この人のそばにいるために私も、まっさらでいたいと思った。
本気でそう、思ったのだ。
そう思ったはずなのに。
ほろ、と涙が零れて慌てて下を向く。
蒼弥くんが綺麗な人だから、見合うように私の綺麗な部分だけを知っていて欲しかったのに。
蒼弥くんの隣にいると時々、消えてしまいたくなる。
「ちょ、なんで泣いてんの?」
泣いてない。そう言いたいのに言葉が詰まるからただ下を向く。
彼の指が気遣わしげに伸ばされて
あ、と思った瞬間にその手を払い除けていた。
「ち、ちが」
やってしまった。
好きなのに、大事なのに。そばにいたいのに。
頭が真っ白になって弁解の言葉も出てこない。
いつもそうだ、壊したくないものばかり自分の手で壊してしまう。
「お前はほんとに愚図でどうしようもないな。」
「お前の取り柄は女の体で生まれてきたことだけだ。」
おかえりもありがとうも、待ってるだけで出てくる暖かい食事も何もない過去の記憶。私にこびりついて剥がれない呪いの言葉たち。
「落ち着いて、呼吸して」
「言いたくないなら言わなくていいから」
私にこびり付いた言葉の中、蒼弥くんの声が降る。
こんな私を思いやる優しい言葉。
「ちがうの、」
「蒼弥くんがすき」
「好きなの。でも、わたしにないものばかり持ってるのがねたましくて」
「そんなことを思う自分がいやで」
蒼弥くんは遮ることなくじっと、私の言葉を聴いている。
蒼弥くんはいつも言葉を尽くしてくれる。
こんなに汚い自分にも、その愛を分けてくれる。
もう隠せない。
でもそばにいたい、そばにいたいから私も言葉を尽くして懇願する。
私の太陽、私の北極星。
こんな私をどうか見捨てないで。
「私はきたないから」
「蒼弥くんに触れられるのが、こわいの」
うそ、どうかもう酷く無惨に捨てて行って。
こんなに汚い私は清らかな貴方のそばに、いるべきじゃない。
貴方が要らないと切り捨ててくれたなら、私はもう貴方を諦めて落ちていけるから。
「キスしてもいい?」
は、?思いがけない言葉に顔を上げれば首まで真っ赤になった彼がいた。
「え、?」
意味がわからない。なんなんだ。
目を白黒させる私を見て蒼弥くんが笑う。
「だって俺が好きって事でしょ。」
「お前に何があって、何を引け目に感じてるのかは分かんないよ。知らないからね。」
「でもさ、俺が好きだから綺麗な所だけ知ってて欲しいんでしょ。」
「そう思うことが愛じゃないなら他に何が愛になる訳?」
堪えたはずの涙がまた溢れる。
「それに大事な恋人に妬まれるくらいに素敵な大人になれてるってことじゃん。」
「そんなやつを選んだお前ってやっぱり見る目あんね、」
「ちがう、ちがうんだよ」
「私ずっと蒼弥くんにかくしてたんだよ。」
「これは俺の自論だけど、思ってることを全て伝えることと相手の全部を好きになろうとすること。それが完全な愛ではないと思うよ。」
触れてもいいかと問われて小さく頷く。
「誰にでも隠しておきたい秘密はあるし人をまるきり好きになれることって滅多にないでしょ」
「蒼弥くんにも秘密があるの?」
「あるよ、たくさん。」
お前を助手席に乗せるために特訓したこととか、実は一目惚れだったこととか、お前が寝てる間に指輪の号数測るのに1ヶ月を有したこととか、
蒼弥くんが指折り数えて秘密を打ち明ける。
「言っちゃった!」
「やぁだまじ、ねぇアタシの恋人には黙っていてくれる?」
ギャルの人格でも現れたのかわざとらしい声を上げて彼が私にウィンクを寄越す。
「ほらね、」
私のことが心底愛しいと言う顔だった。
「秘密はたくさんあるよ」
好きな人の前ではカッコつけたいからさ。知られたくないこと、沢山あるんだよ。
眉間をかいて蒼弥くんが小さく笑う。
「嫌いな、ところも?」
涙を拭う優しい手に頬を寄せて声を出す。今なら聞けると思った。
「あるよ、」
彼の手に寄せた頬をそのままに額を合わせる。
近い距離で目が合うのが気はずかしくて逸らそうとした視線。それを咎めるかのように頬を撫でられる。
「そうやって溜め込むところ、自分を卑下するところ、俺の愛の重さを疑うところ、」
「や、最後のは俺の言葉が足りてないせいだから無しで。」
その言葉に思わず首を振る。
「蒼弥くんの愛は痛いくらい伝わってるよ」
だからそんなこと言わないで。
「じゃあお前もそんなこと言わないで。」
「違うな、そうじゃなくて。言えること、思ったこと、伝えられると思ったものだけでいいから教えて欲しい。」
「悲しいとか寂しいとか傷ついたこととか全部隠されるのは正直悲しい。」
脳内に溢れる言葉を整理するかのようにゆっくりと蒼弥くんが言葉を紡ぐ。
支離滅裂な私の言葉を、蒼弥くんが黙って待っていてくれたように私も黙って彼の言葉を待っていた。
「でも全部言うのは難しいだろうから。伝えられる範囲で。」
「俺はね、お前のことを愛してるよ。」
「だからお前が恐れるものをなるべく取り払ってやりたい。」
希うように蒼弥くんがその瞳を伏せる。
緩いカーブを描くまつげが街灯に照らされている。
「呼んで、俺を。」
「俺は別に王子様でも、ヒーローでもないけど」
力強い瞳が開かれて私を射抜く
「お前だけを愛する唯一にはなれるよ。」
じくじくと、彼に触れている部分から熱が拡がって痛みを覚える。
ずっと、分不相応な恋をしている。
絶対に手に出来ないものに手を伸ばしている。
例え彼の熱が私を焼いたとしても、何億光年先の貴方を追って宇宙を漂う燃え殻になったとしても。
貴方がそばに居ることを許してくれるのならば、張りぼてのこの羽が焼け落ちて死んだとしても、生まれ変わってまた何度でも貴方の元へ飛んでいくのだろうと思った。