lvls_i’s blog

あなたの為に死ねるならそれ以上の幸せはないよ

宇宙人たち

 

月もない新月の夜。

都会の煌々とした街灯だけがベッドの上のふたつの裸体を照らしていた。

 

裸体、といってもそこには色香を伴うようなめくるめく官能の世界がある訳ではない。むしろ、わざとらしい嬌声を上げているだけで終わるものであった方がどれほど良かったか。

 

「泣かないでよ」

 

私を組み敷くのは踏み荒らされていない新雪のように真白ですべらかな肌を晒したひと。何者にも汚されない冬から産まれてきたようなそのひとが震えた指先で私の首や身体中に付いている傷跡を撫ぜ、私の傷を自らの傷のように悲しみ傷ついていた。

 

「もう痛くないし」

 

傷跡はもちろんシミやニキビの跡のないまっさらな頬に滑る涙が次々と、質量を持って私に降り注ぐのが痛くて、つい言い訳のようにそう言い募る。

 

だから嫌だったのだ。

私の傷を晒して、このひとに同情されるのが怖かった。確かに身体に付いた傷だけで全てが分かるわけではないしただの表面だ。私の心は例えこのひとであっても、誰にも汚されないし暴かれない。そう分かっていても「晒す」という、手足を縛って贄のように自らをその目の前に置くのが嫌だった。

 

だってその目に少しでも同情の色が写りでもしたら私はきっと私自身を可哀想なものとしてしか捉えられなくなる。

世間一般の物差しで私を測れば確かに私は「ハズレ」の位置に存在するのだろう。

多分、普通の人は父親に鼻の骨が曲がるほど殴られたことも、母親に首を絞められかけたことも、兄から同意なく性行為に及ばれたことも、何もないのだろう。

家に帰るのが怖くてアルバイトを詰め込んだことも深夜に家を抜け出して高層ビルから地上を眺めて蹲ったことも、多分。

 

私の普通とは違う普通の事で私にはよく分からないけれど。

私はずっとそれが普通なのだと思って生きてきた。類は友を呼ぶと言うように私の周りには親や家族から色々な形で搾取されるのが当たり前となった人しかいなかった。

 

だから私はこのひとに出会って初めて私たちが異常であったのだと_というか未だに、世間一般の倫理的な価値観で測れば私たちが異常なことは理解しているが私たちのような人間は世界的に先進国として数えられる日本にも多くいるはずであり、目の前のこのひとが一等特別なのではとも思っているが、_気付いたのだ。

 

「傷が、」

 

ただひたすらに涙を落としていたそのひとが漸く言葉を零す。俯いたせいでそのひとの少し伸びた髪の毛がその顔の表情を伺えなくさせていた。普段は恐れるようなそれが逆に私に安堵を与えて私はそっと詰めていた息を吐き、手繰り寄せてばかりいたシーツから手を離した。

 

普段は私の神経質な性質を表すかのようにピンと伸びているシーツが可哀想なことになっているかもしれないが今の私にはそんなこと知ったことではない。

 

「傷が癒えて、痛まなくなったから、なに?」

 

風によって揺れる水面のように、微かに語尾をその心から漏れ出た感情で揺らしながらそのひとはそっと言葉を口にした。やわいこころを切り裂いてその血から産まれた言葉を発するような、痛みの滲む声だった。

 

「傷跡があるって事は確かにあなたは傷ついたってことでしょう。」

 

ぽたり、零れた涙がそのひとの手の甲に当たり、音もなく弾ける。

 

「身体だけじゃなく、心も傷付いたんでしょう。」

 

ぽたり、またひとつ涙が落ちた。

 

「もう痛まないからってそこに傷があったこと、全て忘れていていいはずがない。」

 

顔を上げたそのひとの目に映っていたのはただただ深い悲しみだった。ただ愛しい人の健やかな日常を願ってそれが成し得なかったと分かったひとの悲しみだった。

私はぼんやりとその心に収まりきらない感情が迸る美しい虹彩を眺め見て、その瞳の中に同情や哀れみが映っていないことを漸く理解した。

 

それから、私はそっとその手の甲を撫ぜまろい頬に手を当てて涙の軌跡を拭った。

 

このひとは私にとってずっと理解の及ばないひとだった。こうやって、所謂恋人と呼ばれる範囲の中に入ったとしても。なんというか酸素ではなく窒素を吸って生きているような。それはこのひとが愛されて産まれたからかもしれないし私がハズレの方に産まれて来たからなのかもしれない、明確な「ズレ」だった。

 

部屋の外、無機質な街灯だけが私たちを照らしている。不夜のように街を照らし出す明かりを頼りに目の前の愛しい宇宙人の頬を撫でた。

さっきまでライナスの毛布とでも言うかのようにシーツから手を離せなかった癖に、今は目の前のこのひとこそが私はとっての「それ」だと思えた。

 

このひとがもう私と異なる生物でもなんでもいい。

 

こんな私の傷に傷つき、同情ではなく自らの傷として心から悲しんでくれるこのひとが愛しくてその心遣いが嬉しくて堪らない。

 

私のために傷つき、泣いてくれることに歓喜しているなんておかしいかもしれない。でも、しょうがないだろ。何しろ愛を知らずに生きてきてしまったのだから。

 

茶色がちな瞳の奥、美しい虹彩の瞳が涙に満たされていることにより揺れる。水分を含み溶けた瞳はかみさまが丁寧に研磨した琥珀のようだと思った。

もう血の滲まない瘡蓋を無理やり剥がして、そうすることで感じる痛みに安堵するような、思い出すだけで痛む過去の日々が、少しだけ救われた気がする。

まだこれからも、古傷たちは痛むし終わらない悪夢に苛まれる日々が続く。目の前のこのひとだって私の全てをそのまま理解出来ることは無い。

それでも。こうやって私の傷に心を傾けてくれて、蹲ったままいる幼い私の手を引いて抱き締めてくれるこのひとがいる。それだけでこの先がどれほど暗くてもなんとか生きて行ける。

 

世界は冷たくて、不平等で、生きづらい。

それでもこのひとのいるこの世界はうつくしい。

 

 

星の輪郭をなぞる

 

「何読んでるの?」
 
伸びた前髪の隙間から覗く瞳が文字を追う。
 
本を読んでいる時の彼はそばに居るのに少し遠くてそれが少し悲しかった。

実際、本や映画を見て様々な生き様を見ている時の彼はまるで空から人々を覗く人ではない何かのような、この世界の本当を知っているみたいな顔をしていた。

 


「なに、どうしたの」
「寒い、」
 

近くにいるのに手の届かない薄い膜の先に蒼弥くんがいることが悲しくて低めに設定されたエアコンのせいにして、蒼弥くんのそばに寄る。


寒いと言った私のためにブランケットをかけてくれるその愛を甘受しながら、彼の読む小説を横から盗み見る。
私にはやっぱり良さが分からなくて、彼と同じ世界が見れないことに気づきたくなくて目を閉じる。
 
「眠い?」
 
頭を撫でる優しい手に体を預ければ2人の体温が混じり境目もなく溶けていく。
 
現実と夢の狭間でふと額に感じた温度にそっと口角を上げる。
 
分かり合えなくたって愛していた。
彼を彼のまま、丸ごと全てを。
 

 


 
 
どっと笑い声の溢れるテレビ。
いつの間に眠っていたのか汗を吸ったTシャツがまとわりつくのが億劫で手だけでリモコンを探す。
 
そしてテレビから零れた笑い声が夢で見た彼のものだと気づいた。
 
「デビュー、したんだ。」
 
反射的に上半身を起こして画面を見る。
別れてから就活や新しい環境と、すっかり忙しくなってしまったから知らなかった。
顎から垂れた水分が汗なのか涙なのか、私でさえも知らないままただ眺めていた。
 
画面が移り変わってステージの上に立つ5人。
近い将来に伝説になる5人がデビューという通過点を最高速度で通っていく。
 
 
彼の夢が叶っていく瞬間を目に焼き付ける。
不意に、画面越しの彼が笑って視界が滲む。
 
 
私にとって、いつだって蒼弥くんは眩しく輝く一番星だった。
 
 
照れると口数が少なくなる所も、寝起きの柔らかい表情も、シャワー後の香りも、優しい手のひらも。
 
もうきっとほかの誰かのためにあって、私はいつしか蒼弥くんに貰った愛も言葉も全て忘れてしまうだろう。

壊れないように、無くさないように大事にしまったはずのたからものたちが零れて消えていくことを恐ろしく切なく思う。
 
でももう、それでも良かった。

 

彼という愛を手放しても尚、脈打つ胸に手を当てる。

 

蒼弥くんから貰った愛や言葉、眼差し。

その全ては私の血に、肉に、骨に溶けて、私の一部になっている。きっと私の身体は、半分以上が彼から貰ったものでできていた。

 

画面の向こうで蒼弥くんが笑う。

 

眉と目尻の下がった無防備で無垢な、幸せと愛に満ちた笑顔。


ステージの上で大事なひとたちと笑う、貴方のその笑顔を今日も見ていられるのならそれだけで幸福だと思えた。

 

あなたという温もりを失った日々はまだ少し寒くて、蒼い色をなくしてしまった景色には慣れない。

それでも私はもう、迷わずに生きていける。

 

貴方に貰ったものは確かに私の中にあって、蒼弥くんは大事なものの中で変わらずに幸福でいてくれる。
 

だから歩いて行ける。
 私にとって蒼弥くんはずっと、いっとう綺麗に輝く一番星だ。

例え近くにいれなくても、姿が見えなくても蒼弥くんが変わらずそこで輝いていてくれるから私はそのやさしい灯りを頼りに歩いていける。そう、思った。
 

ミッドナイトに逃亡

 

全てが眠る午前3時。

浮き足立つ心を押し留めて密かに家を抜け出した。

 

ぬるい風が頬を撫でていくのにも構わずに走り出す。

 

いつもはうるさく吠える犬が寝ている横を抜けて行けば街灯に薄く照らされる白い背中。

 

「おっせーぞ!」

 

優斗くんの笑顔がチカチカと瞬く。

それが彼を照らす街灯のせいなのか、息切れのせいなのか、はたまた心臓を打つ恋心のせいなのか。

私には全く分からなかった。

 

「ほら、いくぞ」

 

優斗くんに促されて自転車の後ろに乗る。

少しの躊躇いの後、優斗くんの白いTシャツを掴む。

 

「わ!」

 

ぬるい風を切って走り出した自転車。

 

「ばか、ちゃんと掴んどけって!」

 

大きな手が私の手を引くから、意を決して優斗くんの腰へ手を回した。

薄いTシャツの下、女の子とは違う筋肉質な体と制汗剤かなにかの爽やかな香り。

 

お酒なんて飲んだこともないけれど。

きっと酔ったらこんな気分なんだろうと思った。

 

優斗くんの大きな背中にそっと頬を当てる。

 

びくりと優斗くんの体が大きく跳ねて閑静な住宅街にひっくり返った声が響く。

 

「何してんの!?」

 

いつもなら出来ない様な大胆なことが出来たのは、この非日常な空間と当てた耳から伝わる拍動のおかげだった。

 

ばくばくと大きな音を立てているのは私の心臓か、それとも優斗くんの心臓か。

 

「いや?」

 

恐らく、否定しないであろうことを言えば案の定押し黙ってしまった優斗くんに笑い声を零す。

 

段々と大きくなってしまった私の笑い声にどこかの住人が反応して怒鳴り声が上がる。

 

「ああもう!捕まっとけよ!」

 

立ち漕ぎになれば私がしがみつきにくくなるからか、あくまでも座ったままにギアを上げる優斗くんがそう声を上げる。

 

その直後に世界の流れるスピードが変わる。

 

この逃避行が終わったらなんて言おうか。

そんなことを考えながら私はさらに強く彼を抱き締めた。

 

 

イカロスの翼

 

綺麗な人だ。

魂までが清らかな、愛と自由の間から産まれたひと。

 

あの綺麗な人のそばにいたい。

あの人のそばにいるために私も、まっさらでいたいと思った。

 

 

 

寝ぼけた体をストレッチで起こして浮腫みを取る。

ベースメイクはいつもより少し軽めにして睫毛を根元から上げる。アイラインは瞼に沿って短めに、ピーチピンクのティントを指でぼかして馴染ませ頬骨と鼻筋にハイライトを。

 

鏡の前でにっこりと笑ってみる。

 

誰にでも愛されることが出来そうな、清楚でかわゆい女の出来上がりだ。

 

 

時間通りに訪れた彼がいつもより丁寧に拵えた私をぼんやりと見詰める。

 

「似合わない?」

 

下品にも幼くも見えないように細心の注意を払って選んだ花柄のワンピースを翻す。

 

「似合ってる、」

 

耳の縁を赤くした蒼弥くんが私をそっと抱き締める。

 

「やばい。」

 

耳元に聞こえる甘い声。

 

「見せたいけど見せたくない」

 

甘い甘い愛の言葉に囁くような笑みが零れる。

 

「いやよ、そのために頑張ったんだから。」

 

彼の腕の中から抜け出して笑えば恨みがましいような視線を向けられる。

 

「ふふ、」

 

蒼弥くん。私の最愛、大切なひと。貴方のそばにいたいから、貴方の大事な人たちにも愛されるように着飾ったのよ。

 

 

別に蒼弥くんの家族に会うのは初めてではない。

 

家族を愛し愛されている彼と付き合う上で彼の家族と会う機会はそれなりにあった。

 

そのおかげで彼のご家族やご友人には良くしていただいている。

 

でも今まで蒼弥くんが私の育ちに配慮してくれていたのか、一家揃っての家族の団欒の場に訪れたことはなかった。

 

緊張から必要以上に前髪を触る指を運転席に座る蒼弥くんが握る。

 

「なんもないって」

 

大きな手が私の手を掴んで薬指にはめた指輪をなぞる。

 

夕日が横顔を照らして彼の瞳が煌めく。

低くて柔らかい言葉が私の心に染みる。

 

知らないはずの傷跡を知っているみたいに。

 

 

玄関を開ければ団欒の匂い。

蒼弥くんのお姉さんと弟さんがリビングから現れて歓迎される。

 

慣れたようにその歓迎を受ける蒼弥くんの後ろを慌てて追いかけた。

 

 

 

「もう少しでお父さん帰ってくるから」

 

ゆっくりしてて、と蒼弥くんに似た優しい顔のお母さんが笑う。

 

蒼弥くんとお姉さんに手を引かれてゲーム機の前に座るけれどどうにも落ち着かない。

 

それを見たお母さんが少し笑って台所に招かれる。

 

「貴女が家族になってくれるの、とても嬉しいのよ」

 

心底嬉しそうに彼を産んだ人が笑う。蒼弥くんに似て彼のお母さんは愛を表現するのに躊躇いがない。

 

いや、お母さんが彼に似ているんじゃない。彼がお母さんに似ているんだ。

 

子は、親に似るものだから。

 

 

 

家族の団欒の中にいる私をまるで幽体離脱でもしているかのように眺めていた。

 

例えば、彩りと栄養が考えられ手の込んだ料理。

例えば、互いを慮りつつも躊躇いのない軽口。

例えば、必ず伝えられる感謝の言葉。

例えば、お母さんのスマホの画面に映る彼と彼の兄弟の幼い頃。

 

貼り付けた笑みは崩れていないだろうか。

 

彼と会って、彼を知って行くうちに私の生きてきた場所が普通じゃない事を知った。

 

だから隠した。

綺麗な貴方のそばにいるために綺麗でいたかったから。

 

 

私のために一滴も呑まずにいた彼が私を家まで送ってくれる。

 

「なに、なんか不安?」

 

自宅に帰ってきてもぼんやりとしたまま玄関に立つ私に、蒼弥くんが問いかける。ぶっきらぼうな口調と裏腹に私を気遣う視線。

 

 

綺麗な人だ。

魂までが清らかな、愛と自由の間から産まれたひと。

愛し愛され望まれたひと。

 

この綺麗な人のそばにいたい。

この人のそばにいるために私も、まっさらでいたいと思った。

 

本気でそう、思ったのだ。

 

そう思ったはずなのに。

 

 

ほろ、と涙が零れて慌てて下を向く。

 

蒼弥くんが綺麗な人だから、見合うように私の綺麗な部分だけを知っていて欲しかったのに。

 

蒼弥くんの隣にいると時々、消えてしまいたくなる。

 

 

「ちょ、なんで泣いてんの?」

 

泣いてない。そう言いたいのに言葉が詰まるからただ下を向く。

 

彼の指が気遣わしげに伸ばされて

 

あ、と思った瞬間にその手を払い除けていた。

 

「ち、ちが」

 

やってしまった。

好きなのに、大事なのに。そばにいたいのに。

 

頭が真っ白になって弁解の言葉も出てこない。

 

いつもそうだ、壊したくないものばかり自分の手で壊してしまう。

 

 

 

「お前はほんとに愚図でどうしようもないな。」

「お前の取り柄は女の体で生まれてきたことだけだ。」

おかえりもありがとうも、待ってるだけで出てくる暖かい食事も何もない過去の記憶。私にこびりついて剥がれない呪いの言葉たち。

 

 

 

「落ち着いて、呼吸して」

「言いたくないなら言わなくていいから」

 

私にこびり付いた言葉の中、蒼弥くんの声が降る。

 

 

こんな私を思いやる優しい言葉。

 

「ちがうの、」

「蒼弥くんがすき」

「好きなの。でも、わたしにないものばかり持ってるのがねたましくて」

「そんなことを思う自分がいやで」

 

蒼弥くんは遮ることなくじっと、私の言葉を聴いている。

 

蒼弥くんはいつも言葉を尽くしてくれる。

こんなに汚い自分にも、その愛を分けてくれる。

 

もう隠せない。

でもそばにいたい、そばにいたいから私も言葉を尽くして懇願する。

 

私の太陽、私の北極星

こんな私をどうか見捨てないで。

 

「私はきたないから」

「蒼弥くんに触れられるのが、こわいの」

 

 

うそ、どうかもう酷く無惨に捨てて行って。

こんなに汚い私は清らかな貴方のそばに、いるべきじゃない。

 

貴方が要らないと切り捨ててくれたなら、私はもう貴方を諦めて落ちていけるから。

 

 

 

「キスしてもいい?」

 

は、?思いがけない言葉に顔を上げれば首まで真っ赤になった彼がいた。

 

「え、?」

 

意味がわからない。なんなんだ。

 

目を白黒させる私を見て蒼弥くんが笑う。

 

「だって俺が好きって事でしょ。」

「お前に何があって、何を引け目に感じてるのかは分かんないよ。知らないからね。」

「でもさ、俺が好きだから綺麗な所だけ知ってて欲しいんでしょ。」

 

「そう思うことが愛じゃないなら他に何が愛になる訳?」

 

堪えたはずの涙がまた溢れる。

 

「それに大事な恋人に妬まれるくらいに素敵な大人になれてるってことじゃん。」

「そんなやつを選んだお前ってやっぱり見る目あんね、」

 

「ちがう、ちがうんだよ」

「私ずっと蒼弥くんにかくしてたんだよ。」

 

「これは俺の自論だけど、思ってることを全て伝えることと相手の全部を好きになろうとすること。それが完全な愛ではないと思うよ。」

 

触れてもいいかと問われて小さく頷く。

 

「誰にでも隠しておきたい秘密はあるし人をまるきり好きになれることって滅多にないでしょ」

 

「蒼弥くんにも秘密があるの?」

 

「あるよ、たくさん。」

 

 

お前を助手席に乗せるために特訓したこととか、実は一目惚れだったこととか、お前が寝てる間に指輪の号数測るのに1ヶ月を有したこととか、

 

蒼弥くんが指折り数えて秘密を打ち明ける。

 

「言っちゃった!」

「やぁだまじ、ねぇアタシの恋人には黙っていてくれる?」

 

ギャルの人格でも現れたのかわざとらしい声を上げて彼が私にウィンクを寄越す。

 

「ほらね、」

 

私のことが心底愛しいと言う顔だった。

 

「秘密はたくさんあるよ」

 

好きな人の前ではカッコつけたいからさ。知られたくないこと、沢山あるんだよ。

 

眉間をかいて蒼弥くんが小さく笑う。

 

 

「嫌いな、ところも?」

 

涙を拭う優しい手に頬を寄せて声を出す。今なら聞けると思った。

 

「あるよ、」

 

彼の手に寄せた頬をそのままに額を合わせる。

近い距離で目が合うのが気はずかしくて逸らそうとした視線。それを咎めるかのように頬を撫でられる。

 

「そうやって溜め込むところ、自分を卑下するところ、俺の愛の重さを疑うところ、」

「や、最後のは俺の言葉が足りてないせいだから無しで。」

 

その言葉に思わず首を振る。

 

「蒼弥くんの愛は痛いくらい伝わってるよ」

 

だからそんなこと言わないで。

 

「じゃあお前もそんなこと言わないで。」

「違うな、そうじゃなくて。言えること、思ったこと、伝えられると思ったものだけでいいから教えて欲しい。」

「悲しいとか寂しいとか傷ついたこととか全部隠されるのは正直悲しい。」

 

脳内に溢れる言葉を整理するかのようにゆっくりと蒼弥くんが言葉を紡ぐ。

 

支離滅裂な私の言葉を、蒼弥くんが黙って待っていてくれたように私も黙って彼の言葉を待っていた。

 

「でも全部言うのは難しいだろうから。伝えられる範囲で。」

 

「俺はね、お前のことを愛してるよ。」

「だからお前が恐れるものをなるべく取り払ってやりたい。」

 

希うように蒼弥くんがその瞳を伏せる。

緩いカーブを描くまつげが街灯に照らされている。

 

「呼んで、俺を。」

「俺は別に王子様でも、ヒーローでもないけど」

 

力強い瞳が開かれて私を射抜く

 

「お前だけを愛する唯一にはなれるよ。」

 

 

 

 

 

じくじくと、彼に触れている部分から熱が拡がって痛みを覚える。

 

ずっと、分不相応な恋をしている。

 

絶対に手に出来ないものに手を伸ばしている。

 

 

例え彼の熱が私を焼いたとしても、何億光年先の貴方を追って宇宙を漂う燃え殻になったとしても。

 

貴方がそばに居ることを許してくれるのならば、張りぼてのこの羽が焼け落ちて死んだとしても、生まれ変わってまた何度でも貴方の元へ飛んでいくのだろうと思った。

 

 

夢の向こうに愛を見る

 

「    」

 

呼ばれていた、

 

朝でも夜でもない午前3時。

瞬きと共に落ちた雫、それが歩いた頬を拭う。

 

何も思い出せないけれど心まで溶けてしまうような優しい夢だった。

 

ベットから抜け出して洗った顔。

ただこの浮遊する気持ちを落ち着けたくて髪を纏めるのも忘れて顔を濡らした。

顔から伝う水分がTシャツの色を深める。

 

それが目に入った瞬間、後悔した。

 

思い出さないよう蓋をしたはずの記憶。

四畳半、私の失楽園

 

「れいくん、」

 

夢に浮かされたまま貴方の名を呼ぶ。

癒えることない心の傷が引き攣り痛む。

それでも紡いだ言葉は甘くまだ貴方のことが愛しいと叫んでいた。

 

旧時代的で退廃的、家のために役立つ物としてしか私を見ない家。

そんな家に嫌気が差して家を飛び出した時に出会ったのが彼だった。

 

彼となら私は人間になれた。

便利なものでも、家と家を繋ぐものでもなくただのひとに。

 

黎くんが私に恋を教えてくれた。

 

まるで春日のような日々だった。

 

五線譜とアルペジオ

隣の部屋の声が聞こえる安いアパート、私の為だけのコンサート。

朝はこれから眠る彼の声で起きて少しチクチクする髭を嫌がる振りをしながらキスをして。

 

春日の日々、私に与えられた束の間の猶予。

 

恋を知って必要とされることを知って愛されることを知った。

私は自由になったつもりでいたんだ。

 

非通知でかかってきた電話。

それに出なければ私はまだあの楽園の中で夢を見れたのだろうか。

 

一人で彼を待つ喫茶店

ただひたすらに彼が来ないことを願っていた。

 

二人の巣の中で話をしなかったのは自分の力であの楽園から出ていける気がしなかったから。

 

死刑を待つ罪人みたいに彼を待っていた。

 

長くなった髪を結ぶようになった彼と正反対に髪を切った私。短くなった髪を見て彼が驚いたように目を瞬かせて「似合うね」ってはにかみ笑う。

 

変わらない君、変わるしかない私。

 

終わらせるしか無い関係を思い知り俯く。

ぬるくなった珈琲には死にかけの女が映っていた。

 

私は自分も彼も世界をも騙して嘘をついた。

 

黎くんに彩って貰った指が掌に食い込む。

不器用な彼が心を込めて丁寧になるよう塗ってくれたそれ、

 

いつか消えてしまう、もの

 

真っ直ぐに私を見つめる君の目から目を逸らさないように、ギリギリの所で堪えている涙をこぼさないように私も見つめ返す。

 

君に教えて貰った恋はいつか愛に変わってしまった。

 

四畳半のチャペル。シルクのベールじゃなくレースのカーテンを被って誓った永遠の愛。

 

『貴方は私の最後の愛、』

 

熱に浮かされて口にした言葉を支えに、月明かりの下触れ合わせた額。

 

私を人間にしたくせに、それなのに、ひどいひとだ。

 

私を引き留めも嘆きもしないで黙っている。

 

でもずっと分かっていた。

嫌になってしまうほど聡く諦めの上手い君だから、私を引き留めないって分かっていた。だから笑った。

 

黎くんの記憶の中の私が最後まで綺麗にいられるよう。

 

「黎くん、」

「私のこと歌にしてもいいよ」

 

なんでもない振りをして言い放つ。

バンドマンの別れた恋人との歌なんて腐るほどあるって。

 

その言葉の裏に貴方の中に確かな形で残りたいという本音を隠して、

 

「しないよ」

 

ずっと黙っていた君が声を出す。

酷くはっきりとした声だった。

 

「しない、過去にしたくないから」

 

流石バンドマン、なんかそれ、歌みたいね。

 

さようなら、私の最愛。

 

 

暗がりの中、淡く光る指輪。

驚くほど大きな宝石の付いた指輪は重くどう考えても普段使いには向いていなかった。

 

何故か私を慈しんでくれている夫からの愛の大きさ故のそれがどうにも息苦しくて何かと理由をつけて外しているもの。

 

こんなものに私は縛られている。

 

あの紙もそうだ。

茶色の婚姻届。

 

あれ1枚を書いただけで私は妻になる。

 

たった1枚に名前を書いただけで。

 

それだけの事で人は法律すら味方にしてそばにいる大義名分が得られるのに。

 

どうして、

 

それ以上は考えたらいけないことだった。

 

固く目を瞑って淡い夢を思い出さないようしまい込む。

 

ああ、どうかわたしの楽園よ。

風化しないよう、綺麗でいて。

 

ああ最愛の黎明。

貴方もどうか、どうか幸せでいて。

 

 

狐の嫁入り

 

華やかな会場に広がる笑い声。

視線の先には純白のドレスを身に纏う、君。

 

華やかなものより実用的で簡素なものを好んだ君に似つかわしくない様に思える豪奢なドレス。

 

俺と別れてから趣味が変わったのかな

それともそれは君の隣にいる彼の趣味?

 

俺の知る君は恋人の趣味で服を変えるような人じゃなかったけどな

 

まぁどうでもいいか、

 

この場から君を攫って行けるほどの勇気はないし君を幸せに出来る確証だってない。

 

それにきっと君も望まない。

 

あの日の喫茶店、なにも言えなかった俺を見て分たれた袂。

 

どうせ何も出来やしない

何も出来やしないから俺がここにいることが君に気付かれないことを祈っていた。

 

幸せに見えるこの会場の主役である君の心が少しでも平穏であるようにと、決して交わることない未来を空に描く。

 

俺は君のそばで君と幸せになれないから、君はそこでどうか幸せになってくれ。

 

ああ、でも

 

叶うのであれば二人で幸せになりたかった。

 

俺の愛じゃ君を縛れないのにただの金属と石が君を縛れるのは何でなんだろう。

 

君の左手薬指、君を縛る人がいる証。

 

いつまで経っても醒めない夢を追う俺には到底買えもしないだろう指輪。

 

君は知っているのかな

 

古来より将来を誓う証として送られてきた指輪には、もし何かがあって別れた時の足しにしてって意味があるってこと

 

幸せの始まりに終わりを見るものを贈るなんてさ、

 

「金があるから、安定してるからなんだよ」

 

楽しげな会場の中に正反対の感情が紛れ込む。

 

金があったって愛がなきゃどうにもならないでしょ

 

そんなこと俺が言う資格はないってわかってる。

君が俺に別れを告げた日、ただ黙って言葉を受け止めることしか出来なかった俺だから。

 

でもそう思わずにいられなくて、

 

君の幸せを願う感情ともう二度と交わらない俺達の運命を憎む感情が混ざりあってオーバヒートする。

分かっていても理解することを拒む脳がそばにいれない理由を探す。

 

バンドマンと社長令嬢?

彼女だけを優先できないから?

見えない未来のせい?

 

いやきっと全てだろうな

 

ぐちゃぐちゃになった気持ちが腹の底で渦を巻く。

 

もし、時を戻せるのなら君と出会わずにいたかった。

思うだけでこんなにも痛いのなら、

 

「貴方は私の最後の恋です」

 

花嫁の手紙を読んでいた君の言葉に飛んでいた突如として思考が引き戻される。

 

引き戻されて引き戻されて、辿り着いた先は四畳半の楽園。

 

レースのカーテンを被って気恥しそうにはにかんだ君、四畳半のチャペル。

 

思い返すまでもなく魂に刻んだあの言葉。

 

鮮やかに彩られた君の瞳から雫が落ちる。

 

 

ああ、

 

君の中に変わらない愛を見てただそれだけのことで救われる。

 

それだけでいいよ。

もう充分だよ。

 

君の中に変わらないものがあるならそれだけを後生大事に抱いて生きていけるから。

 

 

音も予兆もなく溢れた涙を拭う。

 

 

ああ、幸せが確約された6月の花嫁

 

もう充分、もう充分だから、

どうかもう俺を忘れて。

どうか幸せに。

 

ただ、ひたすらにそう願っている。

 

嘘つきの花嫁が今日神様の前で未来を誓う。

 

 

ああ、空も泣いている

 

 

ポラリス

 

堤防の上を舞うスカートとそれを追う、俺。

繋いだ手は緩く離さない為だけの力で。

 

「ちょ、危ねぇって」

 

いつだって好奇心のままに動く彼女に幾度となく言い放った言葉を投げる。

ポーズだけの言葉を受けて淡い笑い声が上がる。

 

神様がいるのなら今この瞬間に世界を終わらせて欲しいと思った。

 

辿り着いた海。

前を歩く彼女に手を引かれたまま暗い海へと歩いていく。

 

靴下とローファーを脱ぎ捨て海に足を付ける。分かっていたけれど3月の海は酷く冷たい。

 

「優斗」

 

「東京、いくんでしょ?」

 

こちらを見ることなく落とされた死刑宣告。

彼女と過ごした数年でそれを知ればこうなると分かっていた。二兎を追った俺はそうなることが嫌で必死に隠していたけれどプライバシーの欠けらも無いこんな片田舎じゃ知られているのも当たり前か。

 

沈黙は肯定。

 

「そっかぁ」

 

無感動で平らな声。

 

彼女が纏う紺色のセーラー服。胸ポケットに刺さったピンクの造花には「卒業おめでとう」の文字。伸びた身長分丈の短くなったスカート。

 

俺たちが学生でいられるのは今夜が最後。

田舎だからこその星空は憎いほど綺麗に澄んでいた。

 

風の好きなようにさせていた髪を耳にかけて彼女が振り返る。足元から伝わる温度に心を落ち着かせるよりも先に彼女が切り出した。

 

「別れよっか」

 

その言葉に問いかけの意味はなく彼女の中で既に決まったことだった。

 

始めたのは君だったからせめて俺が終わりにしたかったというのに。ヘタレな俺は何も出来ずに全部君に押し付けたまま突っ立って、君は全部分かってなんでもない顔して立っている。

 

目は口ほどに物を言う。

 

君の瞳が俺への愛を語る。

それがどうしようもなく悲しかった。悲しくって、それでも愛おしかった。

 

「怒って、傷つけろよ。意気地無しって」

 

いっそ詰ってくれれば良かった。

 

こうなることを予測しつつもいざそうなれば一緒に来てくれるんじゃないかって、

来てくれなかったとしても俺を信じて待ってくれるんじゃないかって、

 

人の少ない海辺の片田舎と人の行き交う大都会。

お互いに離れているということは同じでも不安になるのはどう考えても彼女のはずなのに。

 

それでも俺は夢も彼女も諦められなくて

 

「好きよ、」

 

優しい顔で彼女が微笑む。

 

いつだって彼女は大きな愛で俺を許してくれる。

終わりの今でさえ変わらない愛が嬉しくて、変わらない態度が憎かった。

 

「泣かないで」

 

彼女の白魚の手が俺の頬を辿るからその手に寄り添うように手を重ねる。

 

「すきだよ、ずっとそばにいたい」

 

この制服を纏って無垢な子供の振りをしていられるのは今夜が最後だから。

俺は馬鹿だからこの言葉が彼女を傷つけると知っていて言葉を紡いだ。

 

 

どうかお願いだ。

この言葉がつける傷が痛む度に彼女が俺を思い出してくれますように。

 

 

死ぬまで君が好きだなんていって未来を確約出来やしない子供の言葉。

 

まだ十代の俺達は今後もっと沢山の人と出会うだろう。

 

今は互いが1番かもしれない。

でも今後もしかしたら互いよりもいい人に出会うかもしれない。

 

離れた土地で知らぬ間に変わっているかもしれない愛に怯えるくらいなら、

 

そういうことなんでしょ、

存外わかりやすい君のこと、言わなくたって手に取るように分かった。

 

「終わりにしよう優斗、」

 

これがいつか終わるかもしれない恋だとして、それでも今は変わらぬ愛だとこの心を丸ごとくり抜いて彼女に見せてあげたかった。

 

「それでもずっとそばにいたいと思うよ」

 

永遠を無邪気に信じられるほど子供じゃないけど、

 

「それでもほんとにすきなんだよ」

 

 

 

まるで雨のように大粒の涙が零れる様を見ていた。

 

「わたしもすきだよ、ずっと」

 

でも、でもね、

 

「優斗との日々を綺麗な思い出のままでいさせて」

 

「優斗を嫌いになる前に、終わりにさせて」

 

これがきっと映画なら私はきっと優斗を信じて待つべきなのだろう。

 

でも私は健気に待ち続けていられるほど可愛げのある女でも、彼が私だけを好きだと自信を持って言えるような女でもなかったから。

 

ねぇ、でももし

 

永遠を誓えるほど大人になったその時にまた出逢えたら、その時は私と誓ってくれる?

 

海風が吹くような束の間に私が敢えて置いていた距離を埋めて彼の両腕に捕えられる。いつだって優しかった彼が、強く強く私を抱き締めた。

 

「最低、」

 

 

嘲り笑うような口調とは裏腹な抱擁の中で深く息を吸う。優斗のことを無条件に信じていられる今、この瞬間に死ねたらと思った。