月もない新月の夜。
都会の煌々とした街灯だけがベッドの上のふたつの裸体を照らしていた。
裸体、といってもそこには色香を伴うようなめくるめく官能の世界がある訳ではない。むしろ、わざとらしい嬌声を上げているだけで終わるものであった方がどれほど良かったか。
「泣かないでよ」
私を組み敷くのは踏み荒らされていない新雪のように真白ですべらかな肌を晒したひと。何者にも汚されない冬から産まれてきたようなそのひとが震えた指先で私の首や身体中に付いている傷跡を撫ぜ、私の傷を自らの傷のように悲しみ傷ついていた。
「もう痛くないし」
傷跡はもちろんシミやニキビの跡のないまっさらな頬に滑る涙が次々と、質量を持って私に降り注ぐのが痛くて、つい言い訳のようにそう言い募る。
だから嫌だったのだ。
私の傷を晒して、このひとに同情されるのが怖かった。確かに身体に付いた傷だけで全てが分かるわけではないしただの表面だ。私の心は例えこのひとであっても、誰にも汚されないし暴かれない。そう分かっていても「晒す」という、手足を縛って贄のように自らをその目の前に置くのが嫌だった。
だってその目に少しでも同情の色が写りでもしたら私はきっと私自身を可哀想なものとしてしか捉えられなくなる。
世間一般の物差しで私を測れば確かに私は「ハズレ」の位置に存在するのだろう。
多分、普通の人は父親に鼻の骨が曲がるほど殴られたことも、母親に首を絞められかけたことも、兄から同意なく性行為に及ばれたことも、何もないのだろう。
家に帰るのが怖くてアルバイトを詰め込んだことも深夜に家を抜け出して高層ビルから地上を眺めて蹲ったことも、多分。
私の普通とは違う普通の事で私にはよく分からないけれど。
私はずっとそれが普通なのだと思って生きてきた。類は友を呼ぶと言うように私の周りには親や家族から色々な形で搾取されるのが当たり前となった人しかいなかった。
だから私はこのひとに出会って初めて私たちが異常であったのだと_というか未だに、世間一般の倫理的な価値観で測れば私たちが異常なことは理解しているが私たちのような人間は世界的に先進国として数えられる日本にも多くいるはずであり、目の前のこのひとが一等特別なのではとも思っているが、_気付いたのだ。
「傷が、」
ただひたすらに涙を落としていたそのひとが漸く言葉を零す。俯いたせいでそのひとの少し伸びた髪の毛がその顔の表情を伺えなくさせていた。普段は恐れるようなそれが逆に私に安堵を与えて私はそっと詰めていた息を吐き、手繰り寄せてばかりいたシーツから手を離した。
普段は私の神経質な性質を表すかのようにピンと伸びているシーツが可哀想なことになっているかもしれないが今の私にはそんなこと知ったことではない。
「傷が癒えて、痛まなくなったから、なに?」
風によって揺れる水面のように、微かに語尾をその心から漏れ出た感情で揺らしながらそのひとはそっと言葉を口にした。やわいこころを切り裂いてその血から産まれた言葉を発するような、痛みの滲む声だった。
「傷跡があるって事は確かにあなたは傷ついたってことでしょう。」
ぽたり、零れた涙がそのひとの手の甲に当たり、音もなく弾ける。
「身体だけじゃなく、心も傷付いたんでしょう。」
ぽたり、またひとつ涙が落ちた。
「もう痛まないからってそこに傷があったこと、全て忘れていていいはずがない。」
顔を上げたそのひとの目に映っていたのはただただ深い悲しみだった。ただ愛しい人の健やかな日常を願ってそれが成し得なかったと分かったひとの悲しみだった。
私はぼんやりとその心に収まりきらない感情が迸る美しい虹彩を眺め見て、その瞳の中に同情や哀れみが映っていないことを漸く理解した。
それから、私はそっとその手の甲を撫ぜまろい頬に手を当てて涙の軌跡を拭った。
このひとは私にとってずっと理解の及ばないひとだった。こうやって、所謂恋人と呼ばれる範囲の中に入ったとしても。なんというか酸素ではなく窒素を吸って生きているような。それはこのひとが愛されて産まれたからかもしれないし私がハズレの方に産まれて来たからなのかもしれない、明確な「ズレ」だった。
部屋の外、無機質な街灯だけが私たちを照らしている。不夜のように街を照らし出す明かりを頼りに目の前の愛しい宇宙人の頬を撫でた。
さっきまでライナスの毛布とでも言うかのようにシーツから手を離せなかった癖に、今は目の前のこのひとこそが私はとっての「それ」だと思えた。
このひとがもう私と異なる生物でもなんでもいい。
こんな私の傷に傷つき、同情ではなく自らの傷として心から悲しんでくれるこのひとが愛しくてその心遣いが嬉しくて堪らない。
私のために傷つき、泣いてくれることに歓喜しているなんておかしいかもしれない。でも、しょうがないだろ。何しろ愛を知らずに生きてきてしまったのだから。
茶色がちな瞳の奥、美しい虹彩の瞳が涙に満たされていることにより揺れる。水分を含み溶けた瞳はかみさまが丁寧に研磨した琥珀のようだと思った。
もう血の滲まない瘡蓋を無理やり剥がして、そうすることで感じる痛みに安堵するような、思い出すだけで痛む過去の日々が、少しだけ救われた気がする。
まだこれからも、古傷たちは痛むし終わらない悪夢に苛まれる日々が続く。目の前のこのひとだって私の全てをそのまま理解出来ることは無い。
それでも。こうやって私の傷に心を傾けてくれて、蹲ったままいる幼い私の手を引いて抱き締めてくれるこのひとがいる。それだけでこの先がどれほど暗くてもなんとか生きて行ける。
世界は冷たくて、不平等で、生きづらい。
それでもこのひとのいるこの世界はうつくしい。