「 」
呼ばれていた、
朝でも夜でもない午前3時。
瞬きと共に落ちた雫、それが歩いた頬を拭う。
何も思い出せないけれど心まで溶けてしまうような優しい夢だった。
ベットから抜け出して洗った顔。
ただこの浮遊する気持ちを落ち着けたくて髪を纏めるのも忘れて顔を濡らした。
顔から伝う水分がTシャツの色を深める。
それが目に入った瞬間、後悔した。
思い出さないよう蓋をしたはずの記憶。
四畳半、私の失楽園。
「れいくん、」
夢に浮かされたまま貴方の名を呼ぶ。
癒えることない心の傷が引き攣り痛む。
それでも紡いだ言葉は甘くまだ貴方のことが愛しいと叫んでいた。
旧時代的で退廃的、家のために役立つ物としてしか私を見ない家。
そんな家に嫌気が差して家を飛び出した時に出会ったのが彼だった。
彼となら私は人間になれた。
便利なものでも、家と家を繋ぐものでもなくただのひとに。
黎くんが私に恋を教えてくれた。
まるで春日のような日々だった。
五線譜とアルペジオ。
隣の部屋の声が聞こえる安いアパート、私の為だけのコンサート。
朝はこれから眠る彼の声で起きて少しチクチクする髭を嫌がる振りをしながらキスをして。
春日の日々、私に与えられた束の間の猶予。
恋を知って必要とされることを知って愛されることを知った。
私は自由になったつもりでいたんだ。
非通知でかかってきた電話。
それに出なければ私はまだあの楽園の中で夢を見れたのだろうか。
一人で彼を待つ喫茶店。
ただひたすらに彼が来ないことを願っていた。
二人の巣の中で話をしなかったのは自分の力であの楽園から出ていける気がしなかったから。
死刑を待つ罪人みたいに彼を待っていた。
長くなった髪を結ぶようになった彼と正反対に髪を切った私。短くなった髪を見て彼が驚いたように目を瞬かせて「似合うね」ってはにかみ笑う。
変わらない君、変わるしかない私。
終わらせるしか無い関係を思い知り俯く。
ぬるくなった珈琲には死にかけの女が映っていた。
私は自分も彼も世界をも騙して嘘をついた。
黎くんに彩って貰った指が掌に食い込む。
不器用な彼が心を込めて丁寧になるよう塗ってくれたそれ、
いつか消えてしまう、もの
真っ直ぐに私を見つめる君の目から目を逸らさないように、ギリギリの所で堪えている涙をこぼさないように私も見つめ返す。
君に教えて貰った恋はいつか愛に変わってしまった。
四畳半のチャペル。シルクのベールじゃなくレースのカーテンを被って誓った永遠の愛。
『貴方は私の最後の愛、』
熱に浮かされて口にした言葉を支えに、月明かりの下触れ合わせた額。
私を人間にしたくせに、それなのに、ひどいひとだ。
私を引き留めも嘆きもしないで黙っている。
でもずっと分かっていた。
嫌になってしまうほど聡く諦めの上手い君だから、私を引き留めないって分かっていた。だから笑った。
黎くんの記憶の中の私が最後まで綺麗にいられるよう。
「黎くん、」
「私のこと歌にしてもいいよ」
なんでもない振りをして言い放つ。
バンドマンの別れた恋人との歌なんて腐るほどあるって。
その言葉の裏に貴方の中に確かな形で残りたいという本音を隠して、
「しないよ」
ずっと黙っていた君が声を出す。
酷くはっきりとした声だった。
「しない、過去にしたくないから」
流石バンドマン、なんかそれ、歌みたいね。
さようなら、私の最愛。
暗がりの中、淡く光る指輪。
驚くほど大きな宝石の付いた指輪は重くどう考えても普段使いには向いていなかった。
何故か私を慈しんでくれている夫からの愛の大きさ故のそれがどうにも息苦しくて何かと理由をつけて外しているもの。
こんなものに私は縛られている。
あの紙もそうだ。
茶色の婚姻届。
あれ1枚を書いただけで私は妻になる。
たった1枚に名前を書いただけで。
それだけの事で人は法律すら味方にしてそばにいる大義名分が得られるのに。
どうして、
それ以上は考えたらいけないことだった。
固く目を瞑って淡い夢を思い出さないようしまい込む。
ああ、どうかわたしの楽園よ。
風化しないよう、綺麗でいて。
ああ最愛の黎明。
貴方もどうか、どうか幸せでいて。