夜の校舎に忍び込むことは思ってた以上に簡単だった。
部活中に見つけたフェンスの穴。
顔も知らないいつかの貴方もここを通って何かを成したのだろうか。
辿り着いたプールサイド。
履き潰したローファーと穴の空いた靴下を脱ぐ。
ひたひたぴちゃり。
所々濡れたプールサイドを踊って舞う、水飛沫。
満月を映す水面へ飛び込んだ。
幼い頃私を守ってくれた羊水のように温い水。
私の口から昇った泡を捕まえようと手を伸ばすと手が水を切って外気へ触れる。
夢が醒めたようにプールの底に足が着いて水から顔を出す。伸び放題の髪と学校指定のセーラー服が体に張り付いて重みを増した。
はくり、声にならない声に唇を揺らしても何も変わらない。
頬を伝った水を拭いもせず、度重なる悲しみに狂ったかの乙女と同じように歌を口ずさみながら痛む体を水面に預ける。
ぎぃと古い音を立てて扉が開かれる。
彼が来るのは分かっていたから気にしない。
彼が重い学ランを脱ぎ捨てて所々が夜闇と同じ色に染ったシャツが現れる。
水の中からぼんやりと彼の細い体を眺めていれば彼が慣れた手つきで小箱を叩いて紫煙を燻らせる。
満月と愛しの彼と紫煙。
混じり気のない二人だけの世界。
暫くして2本目を咥えた彼がプールの中へ入ってくる。揺蕩う私を立たせて彼が煙草を咥えさせる。
「寂しんぼ」
嫌そうに目を細めるなら追いかけて来ないでよ。
例え、誰かを道連れにできたとしても彼だけは置いていきたかったのに。
彼はこの残酷な世界で唯一幸せになるべき人だと思っているから。
「嘘つくなよ」
返事を返さず、カラーリングを繰り返して傷んだ髪を撫でてその頭を引き寄せる。
そうだね、これは嘘だ。
貴方がそばにいてくれるならそこが例え業火の中であろうと怖くない。
貴方が許してくれるのならこの旅路に貴方を連れて行きたかった。
咥えた煙草をゆっくり吸って彼の口元にある煙草から私の煙草にも火を移す。背伸びをして彼の後頭部に回した私の手と腰へ回された彼の手。
この前まで同じだった目線はいつの間にこんなに離れてしまったのだろう。
私たちはいつまでも同じでいられないと分かっているはずなのに、それでもこんな抗いようのない男女の差さえが煩わしく、どうしようもなく寂しい。
感傷を誤魔化すように、二人の間の煙草を奪ってプールサイドへと投げ棄てる。
「趣味悪すぎ、」
2本の煙草が手のひらを焼いても無理やり奪ったのは煙が甘くて嫌だったから。なんてちょっとした嘘をつく。
ねぇ、甘いものなんて嫌いなのに甘い煙草が好きなのはなんでなの。ずっと聞けないでいた疑問が顔を出すから、私は笑った。
「おい、」
「じゅり」
手を広げて迎えるように水の中へと潜れば彼が追うように飛び込んでくる。私から流れる赤と彼が追ってくるのに合わせて漏れる赤が暗く透明な水に混ざって溶けてゆく。
彼の薄い体を手繰り寄せて噛み付くように唇を合わせる。合わせた唇が甘くて気持ち悪くて泣きたくなる程愛しかった。
水とお互いに溺れて数秒。
さっきの私と同じように2人で水に浮かぶ。
引き寄せる彼の腕がずっと変わらず優しくてそれだけでどうでもいいと思えた。
「また怒られた訳?」
随分とかわいい言い方だけれど決してそれがその語感に似合うものでは無いと彼は知っている。
「うん、」
「一緒だな」
血の滲んだ唇を引き攣らせるように樹が笑うから痛む腹を庇うこともしないで声を上げて笑った。
月がぼやけて光が滲む。
繋いだ手と私たちを包む水から何もかも伝わって私たちが溶け合う。
瞼が落ちそうになるほど重く、それに抗うように言葉を紡いだ。
「輪廻転生ってほんとにあると思う?」
死んだら次の人生へと巡るサイクル。
「あるんなら俺たちはどうにかしてそこから外れねぇとだろ」
そうだね、私たちはきっと何度生まれ変わったって幸せになんかなれないから。
目を瞑れば幽鬼のような何かがが私を嘲笑う。
きっと樹も同じ。
「…どうしたらいいのかなぁ」
もう目が開かないほど重くて閉じたまま問いかける。
「カミサマでも、脅してみるべ」
「こわ…」
囁くような笑いが漏れて繋がれた手に微かに力が込められる。
普段ならもっと強いはずの握る力が僅かにしか感じられず、樹ももう限界なのだと知る。
最期の力で樹の手を握り締める。
はぐれないように、恵まれなかった私達が二人揃って雲の上にいるという神様に文句を言えるように。
この世界にふたり、ふたりきり。朝はもう来ない。